2004年11月30〜12月1日 硫黄島 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小笠原諸島の最南端に位置する硫黄島。 ここは第二次大戦中、攻守の重要拠点として日米が熾烈な戦いをした地であり、この激戦で双方に多数の死傷者が出ました。 戦後しばらくは米軍が駐留していましたが、現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地としてのみ使われています。一般島民は居住していません。 今回は統幕芸激隊として渡島し、この基地で働く自衛隊員を慰労する運びとなりました。 まずは海上自衛隊のパンフレット「硫黄島案内」から抜粋したデータをご覧ください。
◆硫黄島攻防戦 昭和20年2月16日から3日間、米海・空軍による熾烈な艦砲射撃及び豪雨のような爆撃が加えられ、同2月19日 B-29の大編隊による空襲と硫黄島沖に集結した大艦隊による一斉射撃が全島をおおい、その間130隻の上陸用舟艇が海岸に向け一斉に突撃し、午前9時ごろその第一波が南海岸に上陸した。 硫黄島守備隊は、小笠原兵団長・栗林中将の指揮の下見事な持久戦を展開し、米軍上陸部隊に多大の損害を与えたが、そのほとんどは玉砕し、同3月26日、日本軍の組織的な戦闘は終わった。彼我の損害は次の通りであった。
以上のように数字的データからも大変な激戦地だったことがわかります。 押し寄せる多数の米軍に対し、人数・物量ともに少ない日本軍がとった作戦は、島中に地下壕を掘り、ゲリラ的に米軍を攻撃するというものでした。しかし火山活動が活発な硫黄島は地熱が激しく、壕の中は60〜70℃という過酷な状況になり、暑さで絶命する兵も出たほど。 結果、日本軍のほぼ全滅で終結した硫黄島攻防戦。 しかし米軍は当初この島を3日で占領するつもりだったのが、日本軍の効果的なゲリラ戦に苦しみ、実に1ヶ月以上もの長期戦となったのでした。 この硫黄島は現在も戦時中のまま現場保存されており、至る所で戦闘痕や放置されたままの銃火器類、生活用品などが見うけられます。 また、現在でも豪の中に眠る遺骨が10000体以上居ると見られており、毎年遺骨の発掘作業が続けられています。
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