2004年11月30〜12月1日 硫黄島
 小笠原諸島の最南端に位置する硫黄島。
 ここは第二次大戦中、攻守の重要拠点として日米が熾烈な戦いをした地であり、この激戦で双方に多数の死傷者が出ました。
 戦後しばらくは米軍が駐留していましたが、現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地としてのみ使われています。一般島民は居住していません。

 今回は統幕芸激隊として渡島し、この基地で働く自衛隊員を慰労する運びとなりました。
 まずは海上自衛隊のパンフレット「硫黄島案内」から抜粋したデータをご覧ください。

硫黄島案内

位置 24°47'N 141°19'E
東京から南へ1250km
沖縄から東へ1380km
グアムから北へ1380km
面積 約22ku(品川区又は綾瀬市とほぼ同じ)
気象 亜熱帯性気候、平均気温=23.6℃(年間を通して30℃以上又は16℃以下の日は1週間〜10日間)
火山活動 噴気が無数にあり水蒸気爆発が発生する。
隆起現象(年間30cm)、地殻変動が著しく断層が存在する。
部隊等 海上自衛隊 約240名、航空自衛隊 約110名
鹿島建設作業員 約40名

◆硫黄島攻防戦
 昭和20年2月16日から3日間、米海・空軍による熾烈な艦砲射撃及び豪雨のような爆撃が加えられ、同2月19日 B-29の大編隊による空襲と硫黄島沖に集結した大艦隊による一斉射撃が全島をおおい、その間130隻の上陸用舟艇が海岸に向け一斉に突撃し、午前9時ごろその第一波が南海岸に上陸した。
 硫黄島守備隊は、小笠原兵団長・栗林中将の指揮の下見事な持久戦を展開し、米軍上陸部隊に多大の損害を与えたが、そのほとんどは玉砕し、同3月26日、日本軍の組織的な戦闘は終わった。彼我の損害は次の通りであった。
  戦 死 戦 傷
日本軍 19,900人 1,033人 (生還者)
米 軍 6,821人 21,865人

 以上のように数字的データからも大変な激戦地だったことがわかります。
 押し寄せる多数の米軍に対し、人数・物量ともに少ない日本軍がとった作戦は、島中に地下壕を掘り、ゲリラ的に米軍を攻撃するというものでした。しかし火山活動が活発な硫黄島は地熱が激しく、壕の中は60〜70℃という過酷な状況になり、暑さで絶命する兵も出たほど。

 結果、日本軍のほぼ全滅で終結した硫黄島攻防戦。
 しかし米軍は当初この島を3日で占領するつもりだったのが、日本軍の効果的なゲリラ戦に苦しみ、実に1ヶ月以上もの長期戦となったのでした。

 この硫黄島は現在も戦時中のまま現場保存されており、至る所で戦闘痕や放置されたままの銃火器類、生活用品などが見うけられます。
 また、現在でも豪の中に眠る遺骨が10000体以上居ると見られており、毎年遺骨の発掘作業が続けられています。
空港付近以外の道はどこも整備されておらず戦時中のまま。
そこら中の岩から湯気や煙が噴き出ている。


1932年のロス五輪において馬術障害競技で優勝した西竹一陸軍中佐。この優れた才能者を殺すのは惜しいと、米軍は西中佐に対し投降するよう呼びかけを行ったが、西中佐は断り、この地で果てた。
西竹一中佐戦死の地に立つ碑。


日本軍がゲリラ戦に用いた地下壕。
陸軍と海軍では様式が異なり、陸軍の壕は中が幅狭で屈曲した戦闘重視タイプ、海軍は居住性を考慮した基地重視タイプ。
写真は海軍病院として使われていた大きな地下壕。
ここでは52柱が発見されている。


米軍占領後ここに港を作るため、近くの海域から廃船を集めて土台用途で沈めた。しかし硫黄島は年間に30cmも隆起するため、ついに廃船も姿を現すことに。港の造成案は頓挫した。


戦艦の副砲に使われる14cm砲が配備されていた。これは硫黄島で一番大きい大砲である。
しかしこれを撃つことで敵部隊から目の敵にされ、まず最初に攻撃の対象になったという。日本軍はこれをわざと囮として使ったという説もある。


上と同じもの。
摺鉢山の麓から海岸へ向いている。


硫黄島で一番高い摺鉢山の山頂から見た全景。
右の海岸から米軍が上陸した。しかしあらゆる所から狙撃され、米兵はこの海岸で数千の犠牲を出した。
戦時中は黒く見える部分が全て海だったが、現在までに2メートル以上隆起している。


摺鉢山の名の通り、すり鉢状になっている山頂火口部分。
しかし米艦隊の一斉砲射により鉢の海側が崩壊してしまった(
本来であれば海は見えない)。これが世に言う「地形を変えた艦砲射撃」である。


犠牲を多く出しながら、ようやく硫黄島を占領した米軍は、さっそく摺鉢山の頂上に星条旗を立てた。
白い丸の部分がその跡である。
隣に立つ棒は、日本人が日の丸を立てた跡。
「日本の領土なのだから自国の旗を立てて何が悪い」という次第で、現在でも誰かが日の丸を立てることがある。しかしこれを米兵が見つけると必ず折り倒して行くのだとか。

硫黄島攻防戦で戦った米軍は今や有名になった海兵隊であり、実は結成後の初勝利がこの地だった。そのため米軍関係者にとっても硫黄島は聖地であり、昇進などをした時はここをよく訪れるのだとか。
日米双方にとって大きな意味を持つ島なのである。


◆おまけ◆



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